囚われがなければ、そこには自由がある【 気分がいいのは当前】
えー、今、午前中からさっきまで断続的に来てたメッセージを公開しました。
「気づきである」って大切なんですね。
どうして大切なのかわかるかな。
あなたは今日、気づきであることで何か感じただろうか。
そうですね、なんだろう、、、
気づきであると、適切な位置に戻るというか、そういう感覚があります。
あるいは、硬かったものが、柔らかくなるというか。
そうだね。
姿勢も変われば、視野も変わる。
受け取るものが変わり、世界が変わる。
うん、、、分かると思いますその感じ。
その感覚で生きていった方が楽だろうね。
特に身体は。
身体?
そう。
気づきでない、すなわちあなたが何かに囚われているとき、あなたの身体は強張っている。
だから気づきにシフトすると、姿勢や身体の感覚が一気に変わるのだよ。
あぁそうなんだ。
確かに全然違いますもんね。
こういう感覚の変化を感じるのって僕だけなのかな。
同じような人もいるし、そうでもない人もいるよ。
まぁそうですよね。
しかし、気づきである(=空白である)って、気分いいですよね。
囚われがなければ、そこには自由がある。
気分がいいのは当前だ。
そうか、、、
でも、そう考えると、なんだか不思議ですよね。
なぜ気分のいい「気づき」を犠牲にして、囚われちゃうんだろう?
こちらが聞きたいね。
どうして「気づき」より、囚われを選ぶのかな?
えー、、、っと、、、、
いや、まずね?
囚われを選んでいる感覚はないんです。
勝手になっちゃうんですよ。
そうかな。
そうかなって(笑)
、、、
え、違うの?
あなたはまだ、誰かが描いた脚本を生きている気でいるようだね。
(つづく)
PS
2019年3月25日の訪問者数は44人でした!
って、25日の記録は昨日(というか今日の深夜というか朝)書いたか(笑)
今日はどうなるかな?
来てくださってありがとうございますm(__)m
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